粘葉本和漢朗詠集(平安)


〈読み〉
千年(ちとせ)までちぎりし松も今日(けふ)よりは君に引かれて万代(よろづよ)や経(へ)む 能宜

〈歌意〉
千年まで寿命を保つと約束された松も、今日からは(万年の長寿を持つ)君に引かれたので、万年を経て生き続けるであろうよ

 「和漢朗詠集」は平安時代歌人で、藤原公任が、漢詩、漢文、和歌を集めた朗詠のための詩文集(ソングブック)です。長和2年(1013年)頃に成立しました。もともとは藤原道長の娘威子入内の際の引き出物の屏風絵に添える歌として撰集され、のちに公任の娘が藤原教道と婚姻を結ぶ際の引き出物として、朗詠に適した和漢の詩文を、藤原行成が清書し、それを冊子として装幀されたものといわれています。行成の親筆かどうか定かではありませんが、平安朝の仮名の中で、もっとも典雅な作品であることは否めません。
 

化度寺故僧邕禅师舍利塔铭(唐•貞観五年631•欧陽詢)化度寺憎

 化度寺は唐の都長安の城内にあり、西側城壁側の皇城西第三街の義寧房にあり、三階教という仏教の一派の仏教寺院です。旧寺名は真寂寺で、唐時代に化度寺と改名されました。一時洛陽城内の大福先寺に移りましたが、まもなくまた長安に戻りました。「化度寺故僧邕禅师舍
利塔铭」とありました。三階教は迫害と保護を繰り返しており、唐末には滅んでしまったためか、原石は宋代には失われて、今日では拓本のみが存在しています。その拓本も整拓ではなく、一部分しかありません。
 拓本の中で、今回、取り上げている「敦煌本」はパリ国立図書館大英博物館大英図書館蔵です。この拓本も数奇な運命によって発見されました。
 11世紀半ば、西の辺境の敦煌は多くの民族が入り乱れ。興亡も繰り返されていました。そんな背景の中で、数葉の「化度寺故僧邕禅师舍利塔铭」の拓本が敦煌の小洞窟に封じられました。1900年頃は探検ブームでイギリス、フランスの探検隊に発見され、持ち去られたのです。欧州の探検家達が、中央アジアを探検し、収穫した文物の中に、古写経や書籍、拓本などが含まれていました。日本でも大谷探検隊がアジア探検に出かけています。
 敦煌の鳴沙山の断崖には、4世紀頃から約1000年間、元時代まで岩を掘り続けた仏教遺跡があり、1987年にユネスコ世界遺産に登録された莫高窟は有名です。600あまりの洞窟があり、その中に仏塑像が安置され、壁には一面に壁画が描かれています。1900年頃王円籙が、この遺跡の中の敦煌石窟の土砂の除去作業中に、壁のフラスコ画の小さな亀裂を発見したのが始まりです。この亀裂を拡げていくと、17窟「蔵経洞」の入口が現れ、中には、古文書、絵画の類が包蔵して山の様に積まれていたのです。凄いお宝が眠っていた訳です。そしてこの発見は高官に報告されましたが、公式な調査も目録作成もされなかったのです。王円籙がそのお宝を無断で持ち出し、売り歩いたというふしもあるらしいのです。本当のことなのか後で作ったフィクションなのかはわかりませんが、1907•8年、探検隊が調査を行い、拓本が探検隊の手に渡ったことは事実です。
 
長安の城内西側】

莫高窟

【平面図】

屏風土代(平安•延長6年928•小野道風)枕上心閑

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屏風土代(平安•延長6年928•小野道風) 『枕上心閑』

 小野道風と聞いて直ぐに思い浮かぶ逸話は、花札の絵柄にもなった(花札の柄で唯一の人間)『柳に蛙が飛びつこうと、繰り返している様を見て、書も諦めず精進することを学んだ』というものです。忠実であるかどうかは甚だ疑問ですが、江戸中期1754年に初演された『小野道風青柳硯』という浄瑠璃からだそうです。戦前の国定教科書にも載せられて、広く努力の大切さを学ばせる話に使われました。
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 実像の小野道風はどうだったのでしょうか。経歴をまとめてみました。

小野道風】 おののみちかぜ

(寛平8〜康保3 • 896〜966年)

祖父...小野皇 父...小野葛絃 母...不明

 右兵衛少尉、少内記、内蔵権助、右衛門佐宇佐使、木工頭を経て、最終的には正四位下内蔵権頭となる。これらの昇進は、書の功績によるもので、書で奉職した稀有な存在だったと言えるでしょう。

•天徳3年8月の闘詩行事略記に
小野道風は能書の絶妙なり」
源氏物語
「今めかしうをかしげ」
などと記され、能書としての名声は存命中から大変高かったのですが、没後はその評価がますます高まりました。
 
 屏風土代以外の現存する真跡は
1.三体白氏詩巻(国宝) 正木美術館
2.智征大師諡号勅書(国宝) 東京国立博物館
3.玉泉帖 三の丸尚蔵館
4.絹地切 東京国立博物館 

です。これらの比較をすることで何かが見えてくるかもしれません。

 最後に鎌倉時代と江戸時代に描かれた道風の肖像画を紹介します。どの程度写実性があるかは判りませんが、白の表袴、黒い袍、石帯、纓を垂らした冠の姿で描かれています。没後、道風は「書の神」として崇拝され、その肖像が描かれるようになったそうです。ただ、花札の貴公子とは随分ギャップがあって、戸惑ってしまいますね(笑)。

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小野道風像 伝来寿筆 (鎌倉時代

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小野道風 鈴木春信画 (江戸時代)

粘葉本和漢朗詠集(平安)

こんにちは、今回は平安時代に書かれた
『粘葉本和漢朗詠集』の一節が素敵だったので紹介いたします。

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【変換】は(者)のよの(能)やみはあやなしむめのは(八)な(那)いろこそ(所)やはかくる

【読み】春の夜の闇はあやなし梅の花こそ見えね香やは隠るる

【歌意】春の夜の闇は無益(無駄)なことをする。梅の花は色こそ見えないもののその香りは隠れるなどということがあるのだろうか。

想像するだけでも情景が浮かんできます。春の夜道を歩いていると、どこからか梅の香りがしてきたが、肝心の花は見えない。闇はあらゆるものを隠すものなのに梅の香りは隠れないじゃないかと笑っている作者の様子が浮かんできました。

 
 皆さんはどの様な情景が浮かんできましたでしょうか、、

『師範への道』-始動-

こんにちは、趣味である『仮名』について発信していけたらと思います。

 

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今回取り扱うのはこちらの粘葉本和漢朗詠集の一節。

 

【読み】春立つといふばかりにやみよしのの山もかすみて今日(けふ)は見ゆらむ

 

【歌意】「さあ春が来た」というばかりに吉野の山も霞んで(立春)今日は見えているのだろうか

 

新年度に入った今月、皆さんも新たな目標が見えているのでしょうか、、