化度寺故僧邕禅师舍利塔铭(唐•貞観五年631•欧陽詢)化度寺憎

 化度寺は唐の都長安の城内にあり、西側城壁側の皇城西第三街の義寧房にあり、三階教という仏教の一派の仏教寺院です。旧寺名は真寂寺で、唐時代に化度寺と改名されました。一時洛陽城内の大福先寺に移りましたが、まもなくまた長安に戻りました。「化度寺故僧邕禅师舍
利塔铭」とありました。三階教は迫害と保護を繰り返しており、唐末には滅んでしまったためか、原石は宋代には失われて、今日では拓本のみが存在しています。その拓本も整拓ではなく、一部分しかありません。
 拓本の中で、今回、取り上げている「敦煌本」はパリ国立図書館大英博物館大英図書館蔵です。この拓本も数奇な運命によって発見されました。
 11世紀半ば、西の辺境の敦煌は多くの民族が入り乱れ。興亡も繰り返されていました。そんな背景の中で、数葉の「化度寺故僧邕禅师舍利塔铭」の拓本が敦煌の小洞窟に封じられました。1900年頃は探検ブームでイギリス、フランスの探検隊に発見され、持ち去られたのです。欧州の探検家達が、中央アジアを探検し、収穫した文物の中に、古写経や書籍、拓本などが含まれていました。日本でも大谷探検隊がアジア探検に出かけています。
 敦煌の鳴沙山の断崖には、4世紀頃から約1000年間、元時代まで岩を掘り続けた仏教遺跡があり、1987年にユネスコ世界遺産に登録された莫高窟は有名です。600あまりの洞窟があり、その中に仏塑像が安置され、壁には一面に壁画が描かれています。1900年頃王円籙が、この遺跡の中の敦煌石窟の土砂の除去作業中に、壁のフラスコ画の小さな亀裂を発見したのが始まりです。この亀裂を拡げていくと、17窟「蔵経洞」の入口が現れ、中には、古文書、絵画の類が包蔵して山の様に積まれていたのです。凄いお宝が眠っていた訳です。そしてこの発見は高官に報告されましたが、公式な調査も目録作成もされなかったのです。王円籙がそのお宝を無断で持ち出し、売り歩いたというふしもあるらしいのです。本当のことなのか後で作ったフィクションなのかはわかりませんが、1907•8年、探検隊が調査を行い、拓本が探検隊の手に渡ったことは事実です。
 
長安の城内西側】

莫高窟

【平面図】