屏風土代(平安•延長6年928•小野道風)

 屏風土代と他の道風の真跡を比較して、何かが見えてくるかと思っていましたところ、『智証大師諡号勅書』は、道風の真跡ではないという論文を見付けました。
 諡号勅書とは、天皇が高僧の徳をたたえて、国師号、禅師号、大師号などの徽号を僧の没後、勅命によって授与する文書のことです。ゆかりの寺院に下賜されるのが例で、日付のみが宸筆の場合や、全文宸筆のこともあります。
円珍贈法印大和尚位並智証大師諡号勅書】
 延暦寺第五世の座主•円珍に対し、その没後36年の延長5年12月27日、生前の功をもって醍醐天皇が智証大師の諡号を賜った時の勅書。小野道風の署名はないが『帝王編年記』『扶桑略記』に「宣命道風書之」の記載と、「屏風土代」との書風の比較から道風の自筆と特定。天皇の御画可(可の一字を染筆すること)や中務卿藤原敦実等の自署をともなう原本は中務省に留められ、この写しが寺に下賜されたと考えられる。滋賀園城寺三井寺)から北白川家に伝来。国宝。
 この定説に異議を唱えたのは、湯山賢一氏(元•奈良国立博物館長)です。その根拠は
①公文書としては行書体でありすぎる。
②文字の配置のバランスが悪い。署名の上に記された官位の文字が小さ過ぎる。
③延長4年に出された別の公文書の「天皇御璽」の内印と比べて「天」「御」の文形が異なり、押印が杜撰。
④行を揃えて書く為と見られる折罫がある。勅書に折罫が施される事は無い。
⑤古文書学上からの考察としては、今まで書風にとらわれ過ぎ。
 これらの点からこの勅書は、円珍への贈位諡号の原本の写、控として作成されたものではなく、完成した鈔本としてみた方が矛盾が少ないとしました。何故鈔本が作られたかに関しては
●道風が書写し官庫にあった原本乃至道風手控を基に、道風自身が後年に改めて書いた。
●道風の書を尊重した後人が、料紙、捺印を僧鋼位記式に倣って道風筆跡を本にその底本として作成した。
という仮説を立て、後者の方が可能性が高いと論じられました。
 屏風土代と智証大師諡号勅書の同字を比較しました。(図)
 屏風土代は自身の書き癖で書いている筈です。このようにして見ると、諡号勅書と結構はほとんど同じです。では、諡号勅書は、道風原本の写しでしょうか。筆致に滞りは見られません。臨摹をする実体験からすると、このように自由に筆を動かすことは出来ません。使用している紙から考えても、写しとは思われないのです。「天皇御璽」に問題は残りますが、純粋に文字だけを考えたら、道風書と思えます。

粘葉本和漢朗詠集(平安) 古筆の特徴


〈読み〉
下くくる水に秋こそかよふなれむすぶ泉の手さへ涼しき

〈歌意〉
岩の下をくぐってくる水にはもう秋が通っているのであろう。すくい上げる泉の水は手までもが涼しい

 私の思う古筆の主な特徴
① 流れるような筆使い
②連綿(文字と文字を続けて書くこと)
③平仮名と変体仮名を使い分けている
④踊り字(繰り返し記号)
⑤濁点がない

化度寺故僧邕禅师舍利塔铭(唐631•欧陽詢)


 
 欧陽詢の楷書の代表的な作品として、「皇甫誕碑(貞観年間)」、「化度寺塔銘(631年)」、「九成宮醴泉銘碑(632年)」、「温彦博碑(637年)」があります。
 欧陽詢(557〜641年)は、南朝の陳時代に湖南省で生まれ。唐の貞観15年に85歳で亡くなりました。隋の煬帝に任え、太常博士になり、唐時代では、高宗皇帝の時に給士中(皇帝の側近)、太宗皇帝の時は弘文館学士(教官)となり、太子率更令(皇太子の守役)、渤海男、光禄太夫として皇帝に任えました。この奉職から年代を探る事ができ、「皇甫誕碑」は建碑の年が不明ですが、末尾に「銀青光禄太夫欧陽詢書」とあり、おそらく貞観年間の初期に書かれたものであるとする説が有力です。
 「九泉宮醴泉銘碑」は、太宗皇帝の墓地昭陵内に陪葬され、建碑は判明しています。「化度寺塔銘」は、初めに「率更令」と書かれており、当時欧陽詢はその職に就いていました。従って、上記の四つの書は、貞観初期627年から貞観11年637年の10年間、欧陽詢の70歳ぐらいから10年間の間に書かれたものです。しっかりと書かれた書風は、私も見習いたいものです。
 四つの署の中から、『守』については文字がなかったので、『太』『深』『明』の3字のみ比較してみました。
 『太』は縦線の高さや左ハライ、『深』はさんずいや最後の左ハライ、『明』は左右の高さや形にそれぞれ共通した特徴がありますね。

屏風土代(平安•延長6年928•小野道風)

 真跡が汚れる原因の一つに法帖の制作があります。
 法帖のほとんどは中国ですが、本家に倣って日本でも作られました。最も古いのは、江戸初期の
『本朝名公墨宝』(1645)
木版摺名筆模刻集。三冊。巻上に空海小野道風藤原佐理藤原行成藤原定実世尊寺行能の6人を収める。
 次に
『耳比磨利帖』(1786)
上下二帖。玉田成章編。金石文、古文書の類を多く収録。小野道風は「道澄寺鐘銘」
世尊寺法書』(1794〜96)
十帖。下野国町田清興編、井上慶寿彫り。巻一に小野道風「常楽里閑居詩」を収録。
『集古浪華帖』(1819)
全五冊。ほぼ原寸大。森川世黄模、版下•谷川清好。篠崎小竹序文、「光定戒牒」「伊都内親王願文」「風信帖」「白氏詩巻」「恩命帖」など精巧な仕上がり。
 他に単帖として「秋萩帖」「風信帖」など集帖も多く制作されました。
 屏風土代が刻入された法帖に『集古墨帖』があります。墨帖というのは、黒地に文字を白抜きしたという意味で、寛政6年(1794)〜7年(1795)版下は井上慶寿です。屏風土代の他に「風信帖」なども刻中されていますが、模本に模刻を重ねたものもあって、あまり精度は高くないようです。編者は奥州南部藩儒者の北条世行なので、屏風土代の原本を模刻したとは考え難いですね。現在も残る屏風土代の汚れとは直接の因果関係は無さそうですが、日本でも、三筆、三跡の書跡は法帖が作られ、お手本として流布していたのです。浮世絵の国ですから、彫りの技術は素晴らしいものでした。
本朝名公墨宝


耳比磨利帖


世尊寺法書


集古浪華帖


集古墨帖

⭐︎書き方講座 粘葉本和漢朗詠集(平安)

〈読み〉
涼しやと草むらごとに立ちよれば暑さぞまさる常夏の花

〈歌意〉
少しは涼しいかと思ってあちこちの草むらに立ち寄ってみると、一段と暑さがまさる常夏の花がさいているよ

常夏の花=なでしこの別名


 仮名の技法として、1番大切なことは、筆の鋒先が必ず線の真中(中心)をとおることです。えてして筆の鋒先が線の片側に出る、(所謂側筆)になると、べたっと、太い線になり、品位が下がります。筆を立てて、掌の中がゆったりするように、注意して練習しましょう。
 練習の際、2行にならなくても、区切りのいいところで切って、3行、4行になってもかまいません。

⭐︎墨つぎはかすれたら墨つぎしてください。但し連綿の途中ではしないことが望ましい。

化度寺故僧邕禅师舍利塔铭(唐•貞観5年631•欧陽詢)


(衆妙を極めて言を為し)

 化度寺故僧邕禅师舍利塔铭の拓本は、以前お話ししたように20世紀初頭にイギリスの探検家•スタインとフランスの探検家•ペリオの中央アジア探検によって、発見されました。この拓本は厚い台紙の表裏に貼られた剪装本(拓本を切断して、本の大きさに切り貼りしたもの)の様式で発見されました。敦煌発掘ということから、唐代の原石拓本であることを否定できず、欧陽詢の書であると想定しています。
 この拓本は、ペリオ収集の1紙2頁分はパリ国立図書館に、スタイン収集の5紙10頁分は大英博物館•図書館に収蔵されています。一頁の寸法は縦14㎝、横10㎝で、毎頁4行、毎行5字、全236字が残っています。これは、碑首から8行半に相当し、後部は欠いています。しかもとびとびに35字を欠失しており、唐代に原石が断裂していたことを物語っています。
 化度寺故僧邕禅师舍利塔铭は、宋代以降、拓本のみが伝えられ、翻刻本(模写したものをまた模写した拓本。模写の模写で原本と似ても似つかないものもある。)の優越については多くの議論を呼んできました。著名な拓本としては、
(1)大興翁氏蘇斎本
(2)南海呉氏本
(3)臨川李氏本
(4)松下清斎本
(5)呉県呉氏四歐堂 
が世に知られています。敦煌で拓本が発見されてからは、これら伝世の拓本に対する評価も定着しつつあります。現在、上海博物館に保管されている拓本は、(5)に相当する拓本で、翁方鋼、成親王らの跋文があります。欠字の箇所や文字の細部が敦煌本と一致しており、敦煌本の8行半に対し、この拓本は全体に渉って文字が残っているので、史料性が高いと言われています。清の金石学者•翁方鋼は、化度寺故僧邕禅师舍利塔铭の復元作業を試みています。銘文は34行、毎行33字、全1089文字からなり、文字面だけの寸法は高さ75㎝、幅80余㎝で、ほぼ正方形の墓誌に近い形であることがわかりました。
 墓誌は、大体正方形かやや縦長な形で、大きさは50㎝〜60㎝角から70〜80㎝角の板状の石です。この形式は北魏時代から隋、唐、宋時代ごろまで続いていました。墓誌に書かれた銘文を墓誌
銘と言っています。この翁方鋼の復元作業により、石碑というより、当時の墓誌の形であった事が伺えます。化度寺碑ではなく、やはり化度寺故僧邕禅师舍利塔铭で呼んだ方がいいという事ですね。

屏風土代(平安•延長6年928•小野道風)


(客を招いて僧を迎える)

 屏風土代の紙はとにかく汚れています。楮紙とのことですが、下書きである為に紙質を問わなかったのでしょうか。全体に黒ずんで、やや毛羽立って見える箇所もあります。当時の常用紙がこの様な物だったのか、漉返紙を使用したのかよく判りませんが、同筆者の『玉泉帖』と比べても、ひどく劣化しているのです。
 推敲の為の抹消や、補正の文字、行頭には貼り付け場所を示す符号など多くの書き込みがあります。これは道風が書いた物なので、本文の墨色と同じです。ところが、本文と墨色の異なる汚れが無数に付着しています。それらは道風より後の時代に付けられたものと思われます。
 汚れてしまう原因の一つに臨摹があります。原本の上に紙を乗せて本文を移すので、紙を通して墨がついてしまったり誤って墨を落としたり、名筆であるほどこの事故は起こります。屏風土代には臨摹した記録があります。
伏見天皇(1265〜1317)
近衛家煕(1667〜1736)
の2人です。他にもいるかもしれませんが、この2人の作品は現在も残っています。近衛家煕は伏見天皇の臨摹したものも写しているそうで、興味深いですね。
 現在は18紙を継いだ巻子本の状態ですが、この体裁がいつからなのかよく判りません。巻末の藤原定信(1088〜?)の識語によれば、保延6年(1140)10月22日朝に、定信が『白紙詩巻』と『屏風土代』を経師の妻の物売り女から買い求めた。とあります。その時は18枚バラバラの状態である可能性が高いので、この時から約170年後の伏見天皇、約600年後の近衛家煕の時代はどのような体裁だったのでしょうか。

伏見天皇
1275年11歳で皇太子、1288年24歳で天皇、34歳で譲位、1313年49歳で出家。法名は素融。藤原行成に比肩するほどの書の名手で、仮名も漢字も優れていたと伝える。白氏詩巻や桂本万葉集などの紙背に自筆の花押を残す。天皇の書風は後世、伏見院流といわれ、特に鎌倉時代天皇の書(宸翰様)の主流となって受け継がれた。


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