屏風土代(平安•延長6年928•小野道風)


(客を招いて僧を迎える)

 屏風土代の紙はとにかく汚れています。楮紙とのことですが、下書きである為に紙質を問わなかったのでしょうか。全体に黒ずんで、やや毛羽立って見える箇所もあります。当時の常用紙がこの様な物だったのか、漉返紙を使用したのかよく判りませんが、同筆者の『玉泉帖』と比べても、ひどく劣化しているのです。
 推敲の為の抹消や、補正の文字、行頭には貼り付け場所を示す符号など多くの書き込みがあります。これは道風が書いた物なので、本文の墨色と同じです。ところが、本文と墨色の異なる汚れが無数に付着しています。それらは道風より後の時代に付けられたものと思われます。
 汚れてしまう原因の一つに臨摹があります。原本の上に紙を乗せて本文を移すので、紙を通して墨がついてしまったり誤って墨を落としたり、名筆であるほどこの事故は起こります。屏風土代には臨摹した記録があります。
伏見天皇(1265〜1317)
近衛家煕(1667〜1736)
の2人です。他にもいるかもしれませんが、この2人の作品は現在も残っています。近衛家煕は伏見天皇の臨摹したものも写しているそうで、興味深いですね。
 現在は18紙を継いだ巻子本の状態ですが、この体裁がいつからなのかよく判りません。巻末の藤原定信(1088〜?)の識語によれば、保延6年(1140)10月22日朝に、定信が『白紙詩巻』と『屏風土代』を経師の妻の物売り女から買い求めた。とあります。その時は18枚バラバラの状態である可能性が高いので、この時から約170年後の伏見天皇、約600年後の近衛家煕の時代はどのような体裁だったのでしょうか。

伏見天皇
1275年11歳で皇太子、1288年24歳で天皇、34歳で譲位、1313年49歳で出家。法名は素融。藤原行成に比肩するほどの書の名手で、仮名も漢字も優れていたと伝える。白氏詩巻や桂本万葉集などの紙背に自筆の花押を残す。天皇の書風は後世、伏見院流といわれ、特に鎌倉時代天皇の書(宸翰様)の主流となって受け継がれた。


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